僕はどんな風にして音楽の道に進んだのか? その2 筑波大
大学時代。
入学した筑波大学はまだ出来たばかり(僕は3期生)で、本当に自由な雰囲気があった。
今思えばこれほどいい出会いに巡り会えた環境はなかったのではと思うほど、楽しい大学時代を過ごした。

体芸棟

本当に出来たばかりで見渡す限りの畑と森の中に学校があった。
筑波大学は現在でも学生が作るベンチャー企業が日本一多い大学だが、当時から会社を作る仲間が多かった。
僕の友人Aはオープンという学生ベンチャーの出版社につとめ、タウン誌を創刊した。
このオープンという出版社は今も大学の近くで続いている。
しょっちゅうAと遊んでいた僕はある日、その雑誌オープンの広告で地元の人がジャズクラブを作ろうとして、スタッフを募集している事を知った。
僕はその広告主にすぐ会いにいった。
そして広告主(後に筑波市市議会議員になる野口修さん)と意気投合した僕は、学生の仲間を集め大学の宿舎のすぐ近くにジャズクラブを作ることになる。
作るといっても本当に内装工事を自分たちで行った。


この建物の外装から内装、ポスターから告知のビラ、フリーペーパーまでみんな自分たちの仲間で作った。
大学2年生の夏休みを全て使い切って芸術系の学生仲間を集め手伝ってもらい、コンクリートを練り、なにもなかったがらんとした部屋に煉瓦を積みグランドピアノを入れ、マランツのステレオを入れカウンターを入れ、ライブハウスを作った。野口さんが代表となり国民金融公庫に行ってそのための借り入れを1000万円ほどした。
そして1979年9月9日 (僕が20歳の時) 筑波大学初のAKUAKUという名前のライブハウスが大学追越宿舎脇に誕生する。


こんな風に毎週演奏をさせてもらった。

オープニングの月に東京からやってきたミュージシャンに「こちらはできてから随分経ってそうですね、何年目ですか?」と尋ねられた。
吉祥寺にあったジャズクラブの内装を真似して作ったのだが、学生が自分たちでコンクリを塗ったものだからすでに床にひびが入っていた。
僕達はライブハウスが出来たものだから、東京に出かけていって有名ミュージシャンに出演しませんかと声をかけた。
そしてオープニングには山下洋輔トリオが出演してくれることになった。
その後も都内で活躍する有名ミュージシャンを次々とブッキングした。
僕は毎晩のようにAKUAKUでピアノを弾かせてもらい、時には東京から来るプロのミュージシャンと共演した。
なんと!浅川マキさんと共演したこともある。
僕はそのブッキングスタッフをしていたつながりで、結成間もなく、全国ツアーを始めたばかりの山海塾と出会い、ワールドツアーを共にし、音楽を職業とするきっかけをつかみ今に至る。
思い返せば、音楽の道に進むチャンスをつかめたのは、自分自身とその仲間で音楽の現場をつくり、そこに関わるプロフェッショナルたちと現場を共有できるようにした。なのかな?
今思えば随分小生意気な学生だったろうと思うが、それくらいの生意気さと行動力と人を巻き込む力と誇りを音楽と自分に対して持っている人じゃないと、この業界でやっていけないだろうなとも思う。(どの業界でもそうだろうが)
あまり参考にならないかもしれないが、僕はこんな風にして音楽の仕事をするようになりました。
(よく考えてみればこれは僕が20歳の時の話で、野口さんもほとんど年は変わらないし、色んな作業を手伝ってくれたのは後輩達だし、みんな18〜20歳の仲間でライブハウス経営をする会社のような組織を作り、借り入れをし、建物を借り、工事をし、運営してたのだなあ。と今思い返すと我ながらよくやったなと思う。おそらくこういうベンチャーの精神は今も筑波には色濃く残っている)
入学した筑波大学はまだ出来たばかり(僕は3期生)で、本当に自由な雰囲気があった。
今思えばこれほどいい出会いに巡り会えた環境はなかったのではと思うほど、楽しい大学時代を過ごした。

体芸棟

本当に出来たばかりで見渡す限りの畑と森の中に学校があった。
筑波大学は現在でも学生が作るベンチャー企業が日本一多い大学だが、当時から会社を作る仲間が多かった。
僕の友人Aはオープンという学生ベンチャーの出版社につとめ、タウン誌を創刊した。
このオープンという出版社は今も大学の近くで続いている。
しょっちゅうAと遊んでいた僕はある日、その雑誌オープンの広告で地元の人がジャズクラブを作ろうとして、スタッフを募集している事を知った。
僕はその広告主にすぐ会いにいった。
そして広告主(後に筑波市市議会議員になる野口修さん)と意気投合した僕は、学生の仲間を集め大学の宿舎のすぐ近くにジャズクラブを作ることになる。
作るといっても本当に内装工事を自分たちで行った。


この建物の外装から内装、ポスターから告知のビラ、フリーペーパーまでみんな自分たちの仲間で作った。
大学2年生の夏休みを全て使い切って芸術系の学生仲間を集め手伝ってもらい、コンクリートを練り、なにもなかったがらんとした部屋に煉瓦を積みグランドピアノを入れ、マランツのステレオを入れカウンターを入れ、ライブハウスを作った。野口さんが代表となり国民金融公庫に行ってそのための借り入れを1000万円ほどした。
そして1979年9月9日 (僕が20歳の時) 筑波大学初のAKUAKUという名前のライブハウスが大学追越宿舎脇に誕生する。


こんな風に毎週演奏をさせてもらった。

オープニングの月に東京からやってきたミュージシャンに「こちらはできてから随分経ってそうですね、何年目ですか?」と尋ねられた。
吉祥寺にあったジャズクラブの内装を真似して作ったのだが、学生が自分たちでコンクリを塗ったものだからすでに床にひびが入っていた。
僕達はライブハウスが出来たものだから、東京に出かけていって有名ミュージシャンに出演しませんかと声をかけた。
そしてオープニングには山下洋輔トリオが出演してくれることになった。
その後も都内で活躍する有名ミュージシャンを次々とブッキングした。
僕は毎晩のようにAKUAKUでピアノを弾かせてもらい、時には東京から来るプロのミュージシャンと共演した。
なんと!浅川マキさんと共演したこともある。
僕はそのブッキングスタッフをしていたつながりで、結成間もなく、全国ツアーを始めたばかりの山海塾と出会い、ワールドツアーを共にし、音楽を職業とするきっかけをつかみ今に至る。
思い返せば、音楽の道に進むチャンスをつかめたのは、自分自身とその仲間で音楽の現場をつくり、そこに関わるプロフェッショナルたちと現場を共有できるようにした。なのかな?
今思えば随分小生意気な学生だったろうと思うが、それくらいの生意気さと行動力と人を巻き込む力と誇りを音楽と自分に対して持っている人じゃないと、この業界でやっていけないだろうなとも思う。(どの業界でもそうだろうが)
あまり参考にならないかもしれないが、僕はこんな風にして音楽の仕事をするようになりました。
(よく考えてみればこれは僕が20歳の時の話で、野口さんもほとんど年は変わらないし、色んな作業を手伝ってくれたのは後輩達だし、みんな18〜20歳の仲間でライブハウス経営をする会社のような組織を作り、借り入れをし、建物を借り、工事をし、運営してたのだなあ。と今思い返すと我ながらよくやったなと思う。おそらくこういうベンチャーの精神は今も筑波には色濃く残っている)
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