Yapoos計画のころvol:5 戸川純さんに初めてLDKスタジオで会うまで

確かこの玉姫様の見本盤をもらったのは水道橋にあったLDKスタジオというアルファーレコードのスタジオだった。
当時僕はK君というカメラマンと一緒に茗荷谷にある、一階が八百屋のマンションに住んでいた。
2DKの部屋で、台所をシェアし2つの独立した部屋があった。
その部屋にティアックの8チャンネルのテープレコーダー、ティアックのミキサー、プロフェット600、ドラミュレーターというEmu社から出ていたドラムマシンを持っていて、生まれて初めてデモテープを作った。
そのテープではゼルダのベース、ようこちゃんに歌を歌ってもらっていた。
そして「Anonymous Alien」 というタイトルをつけ、何百本かコピーして友人に配って回った。
今聞くとノイズだらけのこのカセットテープは多くのきっかけを生んだ。
ある日のこと青山にある友人のマンションで、飲んで目覚めると突然電話がかかってきた。
その友人の友人がCMディレクターをしていて、キューピーマヨネーズのCMの音楽を作る人を探していて、僕のテープを聴いたから会ってみたいと連絡をくれたのだった。
打ち合わせ場所の六本木にあったブラウンというCM制作会社に行くと、友人の友人というのは、刈り上げ頭の黒めがねの同い年くらいの男性で、加藤良一君というディレクターだった。
(加藤君は2004年に「キユーピー あえるパスタソース たらこ」のCMを作っている。「ターラコーターラコー」という、「キグルミ」という子供達が踊って流行したCM「クリックすると音楽が流れるのでご注意を!!」)
その加藤君とキューピーアオハタスープの仕事をしたのが僕のテレビCMの初仕事である。
加藤君はCMディレクターという職業がらか、漫画家、ミュージシャン、など面白い人達が周りにいた。
いつの間にか僕は彼の主催する「楽しい音楽」というユニットを手伝ったり、レコーディングを手伝ったり。
「楽しい音楽」でリリースしたレコードは「びっくりハウス」の表紙を担当していたイラストレーターの霜田恵美子さんがジャケットの表紙を書き、蛭子能収さんが裏ジャケットにマンガを書いてくれたりした。(今あらためてびっくりハウスのWEBをみると、表紙イラストレーション=霜田恵美子 対談=細野晴臣VS伊武雅刀/エッセイ=戸川純/と、純ちゃんに知り合う前に少なからず接点があったようだ)
加藤君はあがた森魚さんのファンで、永遠の遠国という発売未定のアルバムにつく、おまけのソノシート作りを手伝っていた。
ソノシートのレコーディングの手伝いをしているうちに、いつのまにか、僕はあがたさんのライブの手伝いでキーボードを弾くようにもなった。
そんな風に1983年は東京都心で、いわゆる今で言うサブカルチャーの人たちの集まりの、あちこちに顔を出していた。
そんなある日、
僕のデモテープを聴いたというアルファーレコードのSさんから電話があった。
曲を頼みたいので一度会いたいという。
僕はLDKスタジオに向かった。
初めて会った純ちゃんは白いシャツに黒いコムデギャルソン(たぶん?)のスカート。黒い革製の指貫グローブをしていたように記憶する。
そして凄くていねいに「宜しくお願いいたします」と挨拶された。
そして話ははじめに/Yapoos計画のころ
につながる。
実は今回書いていて、当時のサブカルチャーの人たちの資料や写真が出てきたので、「Yapoos計画のころ」と別立てで、週一くらいの連載でシリーズで書いていこうかなと思っている。
タイトルは「新人類ローリング80」
それから出てきた資料の中に
「戸川純ユニット・極東慰安唱歌」のサブマスター6ミリテープ。その後CD化したときにも未収録の「感傷的家路」というタイトルの音源。京都のライブハウスで録画したビデオテープ。
当時回していたステージの上から、オフのとき、楽屋、移動中を撮影した8ミリフィルム。
毎回のリハーサルスタジオで録音したカセットテープや、僕の自宅で録音したDEMO。
段ボール箱に3箱ほどある。
聞き直していないが、興味深い物もあるかもしれない。
なにぶん30年前の話なので、記憶があいまいだ。
出来る限り当時の写真や資料を見直しながら書くようにするが、勘違いしているところや、記憶が違っているところがあったら、ご存知の方はお教えください。
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確かこの玉姫様の見本盤をもらったのは水道橋にあったLDKスタジオというアルファーレコードのスタジオだった。当時僕はK君というカメラマンと一緒に茗荷谷にある、一階が八百屋さんのマンションに住んでいた。2DKの部屋で、台所をシェアし2つの独立した部屋があった。そ?...
2012-05-20 07:08 :
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